粗大ゴミどこまで使える?
残念ながら、私たちは体力や時間に余裕がなくバンコクからシンガポールまで自転車で走る案をすてた。
開戦から半世紀後の九月一一日、私たちはバンコク中央駅へ行き、マレーシアへ向かう午後三時一五分発の急行列車に乗り込んだ。
航空機と違って、眼の高さは自転車と同じである。
しかし、そのスピードと快適さは比較にならない。
翌朝九時には、早くも国境の町パタン、ペサールに着いた。
駅に附置されたマレーシア移民局と税関によって、形式的な入国手続きと荷物検査がおこなわれた。
バンコクから南下しただけなのに、国境をこえると時差が一時間だけ日本に近づく。
国家の時間の不思議である。
激戦地や、第二五軍の最初の司令部が置かれたアリルスターを通過し、ペナン島の対岸の駅に着いたのは、正午過ぎである。
ペナンでは博物館近くのホテルに荷物を置き、早速インド人の商店の多い地区を歩いた。
この島には、国際的に活躍しているペナン消費者協会がある。
その代表であるマーチン・コールさんとは旧知の間柄であり、ペナンで会うべき研究者の紹介もしてもらった。
しかし、初めて訪ねた土地でもあり、ここでは「歩く。
見る、聞く」という原則に忠実な調査をおこなった。
商店街を歩き、店の様子を観察し、それから高齢の店員や店主にインタビューを試みた。
約一〇戸の店を訪ね、日本軍による空襲や軍政の体験談は聞けたが、インド国民軍とインド独立連盟に参加した人には出会えなかった。
そこで、タミル人の信者が多いマリアンマン寺院に行き、参詣する人びとに声をかけることにした。
幸い、そのなかのひとりが近くの出版社の事務所に連れていってくれた。
そこの編集者からインド系マレーシア人商業会議所事務局長を紹介してもらった。
そんなふうにしてたどり着いたのが、インド独立運動の熱心な活動家だったJさん(七五歳)が経営する印刷所である。
Jさんの回想を聞いているうちに、「こんな写真もある、こんな記録もある」と、彼は次から次へ金庫から出してくださる。
これまで眼にしたこともなかった貴重な史料を、拝見することができた。
なかでもタミル語で刊行されていたインド独立連盟の月刊機関誌を複写させてもらえたのは、大きな成果である。
ペナンを去る日の朝、マレーシア科学大学史学科の教授に会った。
Jさんの史料はまだ知らないが当時の関係者数十人の聞き書きを作成中だそうである。
将来の研究交流を約束して、クアラルンプールへ向かった。
クアラルンプールでは、ペナンとまったく反対の調査方法をとった。
旧知のマレーシア国民大学政治学科のR教授に、ホテルまで迎えに来てもらい、調査日程や訪問先への行き方などを教えてもらった。
同氏もゴム農園のインド人労働者が軍事目的に徴用された事例から、プランテーション地帯における日本軍政を研究している。
日本軍政のもとで、イギリス人のゴム園経営者に代わって、インド人職長が経営者に任命された。
日本軍の要請に応えて、彼らは多くの労働者を『死の鉄道に建設に送り出した。
マレーシアの人びとは泰緬鉄道という言葉を使わず、「死の鉄道」と呼んでいる。
徴用された労働者の半数以下しか出身地のゴム園に帰還しなかったといわれる。
この戦争で死亡したインド系住民の公式記録はないが、約七万人と推定されている。
インド人経営者のなかには、留守中にインド人徴用労働者の若い妻を妾にして、日本の敗北後に復讐を受け、殺された例がある。
インド国民軍に参加した労働者は、『死の鉄道』へ送られるよりもましと考え、応募した場合もある。
マラヤ大学インド学科のR教授は、インド国民軍と日本軍政のいずれも称賛しない、と強調した。
他方、インド人街の商店内の一室に置かれている事務局では、チャンドラ・ホースとインド国民軍を賛美する声しか聞けなかった。
ここはマレーシアの独立運動ではなく、インド独立運動につながる団体であるため、表通りにその看板を掲げられず、公然とは活動できない。
関係者と話すと、その言葉のはしばしに、インド独立のために戦ったのに、独立後、祖国の再建に参加しなかったインド系マレーシア人の苦衷かうかがわれた。
たとえば、在住インド人のなかでは少数派であるクリスチャンだったチェリーさんの生涯は、数奇に満ちている。
ジョホールバルで父親が日本軍憲兵隊の通訳になった事情も加わって、一九歳のときクアラルンプールの興亜訓練所で教育を受け、六ヵ月後にインド国民軍の将校に任官し、ビルマ戦線に赴いた。
イギリス軍と戦ったインパール作戦の敗北後、ラングーン(ヤンゴン)で軍服を脱ぎ、カルガタに行って、ジョドプル大学の工学部で学んだ。
その間、インドの学生運動に参加し、共産主義に共鳴した。
一九四八年に今度は共産党員としてイギリス植民地支配と闘うために、1500名の女性兵士の司令官としてマレー半島からビルマ戦線へ赴いた。
その後、シンガポールで前首相とともに、人民行動党を創立したりと、じつに広範な政治的遍歴を重ねている。
政治から離れ、法律家に転向してからも、国際的な弁護士として活躍している。
私たちが会った日も、ソ連の経済改革に助言するため渡航する直前の忙しいひとときであり、改めて詳しい話をうかがう約束をして別れた。
インド国民軍の元兵士には、今日もなおマレーシアの各界で活躍している人びとが少なくない。
ジャーナキさんもそのひとりである。
彼女は一七歳で中尉に昇格し、連隊司令官として1000名の女性兵士を率いて、ビルマ戦線に赴いた。
ラングーンでさらに五〇〇名の在住インド人女性が加わり、一五〇〇名の部隊になったそうである。
日本軍の敗北後、敗軍を率いて徒歩でバンコクを経てシンガポールまで戻った。
チャンドラ・ボースとともに辛い行軍の体験を話してもらった。
当時、日本の軍部は女性兵士の軍隊を組織することに、徹底して反対していた。
その反対を押しきって組織されたインド女性部隊の司令官(代行)が、最年少の一七歳の少女であった。
陸軍士官学校や海軍兵学校の卒業年次に応じて昇任していた、年功序列の日本軍には、理解しがたい部隊でもあった。
このような女性部隊の存在や一七歳の司令官の活躍は、インド国民軍が日本軍のたんなる傀儡にとどまらなかったことの証拠かもしれない。
ジャーナキさんは、イギリス軍の取り調べを受けたが処罰されなかった。
結婚して夫とともにイギリスへ留学し、帰国後にマレーシアの政治家として活躍した。
長女は、敵国であったイギリス人と結婚している。
例年ならインパールの雨期は、八月末か九月初めに終わるはずである。
しかし、九月二〇日から二七日までの滞在中、雨の降らない日はなかった。
これも天の配剤で、雨期の最中に苛酷な行軍命令を受けた、日本軍人とインド国民軍兵士の苦境を偲ばせてくれた。
航空機の窓から眺めた広大な盆地の景観、空港に降り立ったときに出会った人びとの顔立ち、ホテルへ着くまでの大通りの風物、街に行き交う人の身のこなし方、言葉の交わし方など、眼にするものも耳にするものも、すべてが私の予想を裏切っていた。
戦場で生死の境を彷徨した軍人の書き残したものから想像していた、厳しいインパール作戦の世界ではない。
私としては、手厚い歓迎を受けた旅行者の眼に映るインパールを語るよりほかない。
そのためには上位数%の粗大ゴミに絞っていた従来の粗大ゴミでは不十分です。
粗大ゴミ納得の粗大ゴミの事ならここが一番!
粗大ゴミなどの事柄を説明する文、論理的に言葉を連ね、内容粗大ゴミの正確な伝達を目指す文です。
ご存知ですか、不用品のことならここ、不用品はこちらで判ります。
不用品の情報提供にも努力しようという企業や団体から、不用品に対する期待が寄せられています。
短い言葉で読者に不用品のインパクトを伝える不用品の記事を短時間に作成するのは容易ではありません。
文書を遺品整理ごとに用意すると煩雑になるため、遺品整理の協力を得て共通データベースを開発する。
遺品整理は限られた文字数の中で、遺品整理の伝えたいことを的確に表現するための重要なポイントについて、考えてみましょう。
遺品整理に迷ったらこちらの遺品整理で情報ゲット。